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[開港5都市]景観まちづくり会議2024横浜大会 - 01 開港都市横浜とは【THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA】

更新日:10月3日



<開港5都市景観まちづくり会議>


開港5都市景観まちづくり会議は、安政の修好通商条約により日本最初の開港地となった5都市(函館、新潟、横浜、神戸、長崎)の市民団体が集い、景観、歴史、文化、環境などを大切に守り、愛着をもって育て、個性豊かで魅力あるまちづくりを行うため、互いにに交流を深め、情報交換を行い、課題を共有、協議する場として平成5(1993)年、神戸から始まった会議である。

その後、毎年各都市において順(神戸 - 長崎 - 新潟 - 函館 - 横浜)に会議が開催され、その成果はそれぞれの活動に活かされ、市民団体相互の交流も盛んに行われるようになっている。横浜も第1回大会から参加しており、第5回(1997)、第10回(2004)、第15回(2009)、第20回(2014)、第25回(2019)大会を地元で開催し、各都市の市民団体を迎え、交流を続けてきた。

会議名は「景観まちづくり」となっているが、景観やまちづくりに特化していない多様な市民活動も対象としており、その中でも「歴史を生かしたまちづくり」は、重要なテーマの一つとして、各大会において分科会等で取り上げられてきた。

今年、令和6(2024)年の第30回大会は、横浜で開催予定となっている。

今回は「みらいへの架け橋 ~時代の積層で輝くまちとひと~」を全体の大会テーマとし、令和6(2024)年11月23日(土)~25日(月)の日程で、基調講演、活動報告、エクスカーション(分科会)などが実施される予定となっている。主催は「開港5都市景観まちづくり会議横浜大会実行委員会(山本博士委員長)」。

[THE HERITAGE TIMES YOKOHAMA KANAGAWA]も歴史を生かしたまちづくりをテーマとした市民webメディア団体として実行委員会に参画し、会議を通じて横浜・神奈川の歴史を生かしたまちづくり、また各都市の取り組みなどを伝えていきたいと考えている。


<開港都市・横浜とは>



19世紀、産業革命を経た西欧諸国は海外に市場を求めて進出し、日本沿岸にも相次いで外国船が来航した。江戸幕府は海岸部に台場(砲台)を築造して海防強化に努め、神奈川沿岸でも神奈川台場が築造された。

嘉永6 (1853)年にアメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが浦賀に来航し、最新鋭の軍艦を背景に開港を要求、翌年の再来航時の交渉により、日米和親条約が締結された 。安政5 (1858)年にアメリカと日米修好通商条約を結ぶと、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと同様の条約を結び、神奈川、神戸、長崎、新潟、函館の5港の開港が決まり、神奈川では「横浜村」が開港場と定められ、安政6年6月2日 (1859年7月1日)に開港する。

開港場は運上所(税関)を中心に、東側(現在の山下町一帯)に外国人居留地、西側に日本人市街が建設され、商人を中心に国内外から集まった人々が住むようになった。慶応3(1867)年には、山手地区が居留地に編入され、居留外国人の住宅地区として発展した。居留地を通じて、衣食住の様々な分野で海外の生活文化がもたらされ、横浜を発祥とする多くの「もののはじめ」が誕生することとなる。


日本大通り 大正2年(1913)頃 横濱今昔写真蔵


慶應2(1866)年の大火を端緒として、外国人居留地の生活改善を目的とした「第3回地所規則(横浜居留地改造及び競馬場・墓地等約書)」が締結され、現在の関内のまちの原型ともいえる整備計画が取り決められ、日本大通りや横浜公園などが造成された。

明治 5(1872)年には、東京・新橋と横浜(現在の桜木町)を結ぶ日本初の鉄道が開業。また、下水道、水道等の近代的な都市インフラ整備か進む。

同時に港湾整備が進むと、横浜港は、明治10年代まで国内最大の輸出入総額を誇る港となり、輸出に関しては生糸をほぼ独占、輸入に関しては綿製品・毛織物・砂糖などの輸入拠点となる。


明治後期(1900~) 初代横浜駅 横濱今昔写真蔵


この生糸貿易で財をなした横浜商人が野毛山、本牧、高島台など周辺の丘陵部に邸宅や別邸を構えるようになる。その実業家の一人である原富太郎(原三溪)は、古美術の収集や新鋭作家への支援をするとともに、京都や鎌倉などから移築した古建築を配置した日本庭園を三溪園として明治39(1906)年に開放し、横浜の美術・文化の発展に寄与した。

横浜港の貿易量増加や湾岸の工業化、さらに人口増加が進むと、都市化による問題が表出し、計画的なまちづくりが求められるようになる。明治21(1888)年に東京市区改正条例が公布され、日本でも近代的な都市計画が定められるようになると、明治22(1889)年4月に市制を施行した横浜でも明治36(1903)年に基本方針である「横浜市今後の施設について」を発表。それまでの「受動的な発達」から「自動的即働きかけの発達」への転換をうたったもので、この時代の都市施策として画期的な、衛生施設の改善や慈善事業の奨励、公園整備など生活基盤整備にも触れていた。また、大正7(1918)年には横浜でも市区改正条例が準用されるが、どちらも財政難により整備は進まなかった。


大正12年(1923) 横濱今昔写真蔵


大正12(1923)年9月1日、関東大震災が横浜を襲う。地震により多くの建物が倒壊したほか、その後発生した火災により市街地の90%近くが焼失し、33,543人が被災した。神奈川県下の多くの都市が自力での復興を余儀なくされたのと異なり、横浜市は「帝都復興計画」に組み込まれ政府直轄の事業と市が行う事業とを合わせて復興に取り組むことになる。復興計画では、港湾設備の拡張や幹線道路の整備、計画的な街路の配置に加えて公園の整備も盛り込まれた。 復興計画はその後の財政難により大幅に縮小されるが、この震災復興事業が今日の横浜のまちづくりの基本となり、現在の都市の骨格に通じてる。また現在、横浜港周辺に残る歴史的建造物の多くは、この震災復興期に建設されたものである。

この震災復興事業を軌道に乗せたのは、大正14(1925)年5月に横浜市長に就任した有吉忠一で 、昭和2(1927)年6月2日、復旧工事を終えた開港記念横浜会館(現・横浜市開港記念会館)で開催された「大横浜建設記念式」にて、横浜市が生糸貿易に依存していた体質を脱却し、本格的な工業都市へと発展するための方策として、「横浜港の拡充」、「臨海工業地帯の造成」、「市域拡張」の3つの柱からなる「大横浜」建設事業を宣言した。

昭和12(1937)年には外防波堤の築造及び市営埋立事業が完成し、日産自動車・日本電気工業などの新興企業が埋立地に進出、横浜港は従来の商業港としての機能に加え、工業港としての機能も合わせもつようになる。



他方で、昭和2 (1927)年に隣接する9町村を編入(第3次市域拡張)し約3.6倍となっていた市域は、昭和14(1939)年の第6次市域拡張を経て、周辺の郡部(橘樹郡・都筑郡・久良岐郡・鎌倉郡)を取り込み、現在とほぼ同じ規模にまで広がったいた。

加えて、震災後の新しい交通計画の中で横浜駅が現在地に移転し、現在の東急電鉄・相模鉄道・京浜急行が乗り入れることで、横浜駅を中心とした放射線状の鉄道網が形成され、鉄道会社は乗客誘致のために郊外部の沿線開発を進めたことで、昭和戦前期を通じて、郊外部に住宅地や農村・工場が包含された複合的な広域都市として発展してきたと言える。

昭和16(1941)年に太平洋戦争が始まり、翌年の昭和17(1942)年から横浜は空襲を受けるようになる。特に昭和20(1945)年5月29日の横浜大空襲による被害は甚大で、再び横浜の市街地は焦土と化した。



終戦後、焼け残った施設の多くが占領軍によって接収され、戦災復興は他都市と比べて大きく遅れることとなる。昭和27(1952)年4月にサンフランシスコ講和条約が発効すると、ようやく接収解除が進み始めるが、復興はスムーズに進まず、柵で区画され草が生い茂った空き地が広がる景観は、「関内牧場」と呼ばれた。

昭和30年代以降、「国際港都建設」と称して港湾施設の拡充と埋め立てによる臨海工業地帯の造成を大きな柱として、戦後横浜のダイナミックな都市づくりが進められる一方で、人口の急増と乱開発が問題になる。

そこで横浜市では昭和40(1965)年に「六大事業」をスタートさせる。六大事業は、特定の基幹的事業を選定し、それらを戦略的・重点的に遂行することで、都市全体の基盤と骨格を整え、健全な都市としての発展を図る大プロジェクトで「都心部強化事業」、「港北ニュータウン事業」、「金沢地先埋立事業」、「高速鉄道(地下鉄)建設事業」、「高速道路網建設事業」、「横浜港ベイブリッジ建設事業」からなり、現在に至る、郊外部も含めた都市の骨格形成に基礎となった。

あわせて昭和46(1971)年に横浜市役所内に「都市デザイン担当」が設置され、歩行者を大事にした都市空間の形成や、水・緑や歴史的建造物等の地域の資源を大切にした魅力づくり、横浜らしい魅力的な景観形成などが進められるようになる。

横浜の都市デザインは、まず都心部の再生事業において、実験的取組を行いながら手法を蓄積し、既成市街地である関内地区を対象に「くすのき広場」 や港へのルートを示した「都心プロムナード事業」絵タイル整備など魅力的な歩行者空間形成に取り組み、その活動が評価されると、馬車道、元町などの商店街へと広がっていった。これらの地区では、公共空間の整備と地域独自の街づくり協定を組み合わせて、地域が主体的に取り組むまちづくりが展開された。行政・地域双方から問題提起し、協議や実験などを通して具体的成果を見せながら進める取組により、市民に理解しやすい形で実践へと展開されていった。


横浜ベイブリッジ


<横浜市の景観まちづくり・歴史を生かしたまちづくり>


・大規模プロジェクトにおける、都市デザインによる人間的で美しいまちづくり

昭和40(1965)年にスタートした「六大事業」では都市問題への対処的な整備にとどまらず、都市の機能性や経済性とともに、美しさ・楽しさなどの美的価値・人間的価値のある街を目指す「都市デザイン」の手法を取り入れることで、個性と魅力のある都市空間を形成してきた。この取組は従来の縦割り組織を超えた、様々な部署からなるプロジェクト方式により推進し、その結果、みなとみらい21や横浜ベイブリッジなど、今日の横浜を代表する魅力的な景観が数多く形成された。

また、市域の約25%(当時)に及ぶ市街化調整区域の指定や、宅地開発要綱の制定により、無秩序に行われていた開発行為が規制されたことで、まとまりのある緑地や農地が現在も残り、憩いや安らぎを与える景観資源となっている。



・行政と地域(市民・事業者)の協働による都心部を中心とした景観づくり

大規模なプロジェクトの推進と並行して、横浜市では都心部の魅力づくりに力を入れた。山下公園、臨港パークなどウォーターフロントの整備や、くすのき広場、大通り公園の整備など中心市街地の景観形成を進めてきた。あわせて1970年代からは、街づくり協議地区や山手地区景観風致保全要綱等による街並みの誘導を行うようになった。また、駅から港(山下公園)まで歩行者を誘導しながら街並みを楽しんでもらうことを目的とした都心プロムナード事業など、関内地区を中心とした魅力的な歩行者空間の形成を行なった。

これらの行政主体の取組が評価されたことにより、中区の馬車道や元町などの商店街においても、地域(市民・事業者)が主体的に取り組むまちづくりが展開されるようなる。行政・地域双方から問題提起し、協議や実験などを通してまちづくりが進められ、公共空間の整備と地域独自の街づくり協定を組み合わせる手法などにより、地域の個性や魅力のある景観が進められてきた。



・様々な主体・手法による景観づくりの広がり

都心部の街並みや歩行者空間整備を中心に行われてきたまちづくりは、次第にその範囲や手法を郊外部にも広げていきました。1980年代からは「区」を中心とした、地域の魅力ある空間づくりに取り組みました。市民や来街者が利用する駅前や区庁舎周辺、道路、公園などの公共空間は、横浜の景観を強く印象付けるものとして、公共サインのデザイン開発や事業者と協力した実験的な取組など、公共空間の質を高めるための総合的な演出が行われた。

当初は行政の事業を主導に、行政の呼びかけに応じて市民がまちづくりに参加していましたが、やがて市民自らが地域の魅力づくりにつながる活動を展開するようになっていき、横浜市では地域のまちづくりを支援する制度を拡充してきている。


くすのき広場(都市デザイン室最初期の事業・平成27(2015)年改修・現存せず)


・景観形成手法の確立 - 景観ビジョン策定と景観条例の施行 -

平成16(2004)年、景観づくりに関する日本初の総合的な法律である「景観法」の施行を契機に、それまでまちづくりの中で景観づくりに取り組んでいた横浜市においても、改めて景観づくりの施策体系を整理することとなる。平成18(2006)年には「景観ビジョン」 「景観条例」を、平成20(2008)年には、景観法に基づく「景観計画」を施行した。横浜市全域を対象に斜面緑地における開発行為に関する景観計画を定めたほか、地区に応じた良好な景観を形成する地区(景観推進地区)を指定し、行為制限や必要な手続きについて定めた。

また、景観条例に基づき、魅力ある都市景観の創造が特に必要とされる区域について都市景観協議地区を定め、地区内において魅力ある都市景観の形成に影響を与えると認められる行為(都市景観形成行為)をしようとするときには横浜市と協議(都市景観協議)をすることを求めいる。都市景観協議は、一定の行為に対して、景観計画などによる基本的・定量的なルールによる統一的な景観づくりだけでなく、話し合いを通じて様々なアイデアを出し合い、魅力と個性ある質の高い景観づくりを行うしくみを行政の手続きとしても位置付けたもである。

平成23(2011)年には地域の良好な景観の形成に重要である樹木を市長が指定し、樹木の維持保全を義務付ける「景観重要樹木」の横浜市第1号として、中区日本大通り沿いのイチョウ並木(65本)が指定された。

平成25(2013)年には景観条例の一部を改正し、魅力ある都市景観の創造を推進する上で特に重要な歴史的建造物を指定することができる「特定景観形成歴史的建造物制度」を新設し、平成28(2016 )年に特定景観形成歴史的建造物第1号として旧円通寺客殿(旧木村家住宅主屋)を指定するなど、景観に関する制度は多様化してる。


旧円通寺客殿


<歴史を生かしたまちづくりに関する活動>


・歴史を生かしたまちづくり

開港以来、横浜が都市として発展してきた歴史を伝える近代建築や西洋館が関内・山手地区を中心に残されていて、訪れる人々に「横浜らしさ」を感じさせてくれる一方、郊外部では、横浜の原風景ともいえる里山の風景を構成している古民家や社寺建築などが、今も地域の人々の生活の中で息づいている。さらに、横浜が導入の舞台となってきた港湾、道路、下水などの土木産業遺産が目に見える形で保全されるなど、横浜には数多くの歴史的建造物が残されている。横浜市では、景観面から歴史的建造物の保全活用に着目し、まちづくりのなかで歴史的建造物を生きた形で使い続けながら保全していくことを目的に、昭和 63(1988)年に「歴史を生かしたまちづくり要綱」を制定し、「歴史を生かしたまちづくり」に取り組んできた。


損保ジャパン日本興亜横浜馬車道ビル(旧川崎銀行横浜支店)認定第1号


「歴史を生かしたまちづくり」の取組では、歴史的建造物の外観を中心に保全活用する横浜市独自の登録・認定制度によって、外観の復元をはじめ、所有者の実状に応じた柔軟な手法をとることを可能とし、さらには、高い水準の助成制度や市街地環境設計制度など、まちづくりの制度との連携などによって、所有者による保全活用を支援してきた。

また、施策の推進にあたっては、歴史的景観保全委員などの専門家との協働によって、研究成果などの知見を生かすとともに、セミナーや広報紙などによって市民理解の向上も進め、さらに、市自らが歴史的建造物の保全活用も積極的に取り組んで創造都市の拠点や公園内の施設として市民とともに活用を図ることで、歴史的景観の保全活用とあわせ、市民が歴史的建造物を身近なものとして感じる機会を創出してきた。


横浜赤レンガ倉庫(横浜市認定歴史的建造物)


こうした取組によって、赤レンガ倉庫や汽車道など横浜の発展を支えてきた近代建築や土木産業遺構、また、人々の暮らしの中に息づいてきた西洋館や古民家など、多くの歴史的建造物が保全活用され、市民や横浜に訪れる皆さんから横浜の大きな魅力として親しまれる存在となっている。

このように、長年にわたって取組を進めてきたが、近年、厳しい経済状況などを背景に、認定を解除せざるを得ない状況も起きるなど、所有者が歴史的建造物を保全活用し続けることに様々な課題が生じている。一方で、歴史的建造物に対する市民の関心は高く、広報普及などの取組によって「歴史を生かしたまちづくり」に関する市民活動も活発になってきており、こうした市民の力を歴史的建造物の保全活用に生かしていくことや、これまでの取組により保全活用されている歴史的建造物を、文化や観光など横浜の魅力を高めるために活かしていくことも、大きな課題となっている。

平成9(1997)年に耐震改修助成制度の新設、平成27(2015)年に特定景観形成歴史的建造物制度への対応、平成28(2016)年にリノベーション助成制度の新設、平成30(2018)年に歴史的建造物の「評価の考え方」明記など、時代の情勢に併せて改正を行っている。


山手133番館(横浜市認定歴史的建造物)民間事業で取得・保全改修


令和6(2024)年3月25日現在で、登録歴史的建造物は212件、認定歴史的建造物は104件である。赤レンガ倉庫やクイーンの塔として知られる横浜税関本関庁舎、ホテルニューグランド本館といった近代建築、エリスマン邸や山手133番館のような西洋館、木村家住宅主屋(旧円通寺客殿)や旧金子家住宅主屋などの古民家、第二代目横浜駅駅舎基礎遺構や護岸、橋梁などの土木遺産など、幅広い建造物が対象となっている。

令和6(2024)には歴史を生かしたまちづくりの 理念・方針等を様々な主体と共有し、 国の支援等も受けながら 横浜の魅力を感じていただけるまちづくりを推進するため 「横浜市歴史的風致維持向上計画(素案)」を公表した。


横浜市歴史的風致維持向上計画(素案)


・まちづくりと連携した歴史的建造物の保全活用

認定制度と市街地環境設計制度の連携による容積率緩和をはじめとして、再開発事業や地区計画や景観計画、まちづくり協議、など様々な形で歴史的建造物の保全活用や歴史的景観への配慮を位置付け、個々のまちづくりに取り組んでいる。

横浜市市街地環境設計制度では、敷地内に歩道や広場(公開空地)を設けるなど、総合的な地域貢献を図ることを条件に、建築物の高さや容積率を緩和することで、良好な市街地環境形成を誘導している。そのなかで、認定歴史的建造物等について保存・修復を行う場合、地域貢献度等の一定基準を満たせば、容積率が緩和される規定が設けられている。

また、馬車道地区など地域で歴史的景観の保全活用に取り組んでいる例もあり、歴史的建造物の保全活用について、所有者へ要望を行うとともに、所有者との協議や検討の場への参画など、地域による積極的な取組も行われてきている。こうした地域の取組は、歴史的建造物の保全活用において重要な役割を果たしている。


旧横浜船渠第2号ドック(横浜市認定歴史的建造物)ランドマークタワー建設とあわせて保全


・戦後建造物への展開

これまで国内の歴史的建造物の保全活用は、戦前期の建造物が中心であった。一方で戦後79年(令和6年現在)が経過し、戦後期の建造物についても歴史的評価が進められている。文化庁では戦後期の建造物の評価と保存措置を目的に、平成27(2015)年から1945~2000年までに築造された建造物を対象として「近現代建造物緊急重点調査(建築・土木)」を実施し、リストアップを急いでいる。横浜市内は、マリンタワーや旧横浜市庁舎、防火帯建築(戦後復興期に防火を目的に建てられた不燃建物)として吉田町第一名店ビル等がリストアップされている。

横浜市においても、平成30(2018)年に「横浜市における戦後建造物を含めた歴史的建造物評価の考え方」を取りまとめ、「歴史を生かしたまちづくり要綱」を改正。主要な考え方として、歴史的価値に「戦後の都市発展の歴史を物語る特徴を有すること」、景観的価値に「戦後に特徴的な街並みを構成していること、新たな活用により魅力的な景観を創出していること」という視点を整理している。こうした取組の下、平成28(2016)年には、野毛の大岡川沿いに建つ都橋商店街ビル(昭和39(1964)年 竣工 / (株)創和建築設計事務所による設計)が横浜市の歴史的建造物として登録されている。また、関内地区の戦後の景観形成を担ってきた防火帯建築についても民間主導でリノベーションが進められており、街中に新たな拠点として再生事例が誕生している。

少しずつ戦後建造物への展開が進む一方で、戦前から戦後、ひいては現代においても人々の憩いの場となってきた「銭湯」等への評価は進んでおらず、コロナ禍や燃料費の高騰が追い打ちをかけ、横浜市内の「銭湯」の減少傾向が続いている。今後はこうした建造物への歴史を生かしたまちづくりの展開も期待していきたい。


都橋商店街ビル(戦後建築)


・文化財保護法・条例に基づく保護

本市では、横浜市文化財保護条例に基づき、横浜の歴史、文化、自然を理解する上で重要なものを市指定文化財として指定し、保存・活用を図っている。また、同条例では本市独自の制度として、登録制度を設け、地域住民が守ってきた地域性を知る上で必要な文化財を広く顕彰し、所有者や地域住民が大切に保存・活用に努められるようにしています。市内には文化財保護法及び神奈川県文化財保護条例、横浜市文化財保護条例に基づく指定等文化財が、476件所在している。これまでの文化財調査が寺社を主な対象としていたため、社寺建築や社寺にある絵画・彫刻・工芸品等の指定・登録件数が多くなっている。

有形文化財は、本市の指定等文化財の約7割となる323件が所在している。種別では一般建造物が最も多く、旧横浜正金銀行本店本館、横浜市開港記念会館、神奈川県庁舎等、明治期以降の近代の建造物が多数を占めていること、生糸貿易で財を成した原三溪が開設した庭園「三溪園」や鶴見区にある曹洞宗大本山「總持寺」に集中していることが特徴である。


旧横浜正金銀行(国指定重要文化財)


平成30(2018)年の文化財保護法改正により文化財保存活用地域計画が制度化されたことを受けて、横浜市でも、文化財の保存・活用に関する現状や課題を整理し、保存・活用の基本的な方向性や取組を可視化し、多様な主体が連携して地域社会が一体となって文化財の保存・活用の取組を計画的、継続的に推進するために「横浜市文化財保存活用地域計画」を策定した。計画期間は令和6(2024)年度から6年間.。市内の文化財を一体的に捉えた歴史文化の特徴に基づく9つのストーリーを設定し、歴史文化の魅力や価値を分かりやすく伝える内容となっているのが特徴。令和6(2024)年7月19日に文化庁の認定を受けた。


これらの歴史的資産の保全活用をはじめとした歴史を生かしたまちづくりに関する情報共有が開港5都市景観まちづくり会議で情報共有されることを大いに期待したい。



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