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[カレンダー]神奈川における第18 回オリンピック東京大会のレガシー【10/14スポーツの日】



昭和41(1966)年に「体育の日」として制定され、制定当初から平成11(1999)年までは10月10日、平成12(2000)年以降は10月の第2月曜日とされていた。 令和2(2020)年、体育の日が「スポーツの日」に変更された。スポーツの日の趣旨は「スポーツを楽しみ、他者を尊重する精神を培うとともに、健康で活力ある社会の実現を願う。」とされている。

「体育の日」の制定は昭和39(1964)年10月10日に第18回オリンピック東京大会の開会式が行われたことに由来する。

第18回オリンピック東京大会では、神奈川県内でも「バレーボール(横浜市・横浜文化体育館)」「サッカー(横浜市・三ツ沢公園球技場)」「ヨット(セーリング)(藤沢市・湘南港 / 葉山海岸)」「カヌー(相模原市・相模湖漕艇場)」が行われた。

ここでは、「スポーツの日」にちなみ神奈川県における昭和39(1964)年に開催された第18回オリンピック東京大会のレガシーの一部を紹介する。


<三ツ沢公園球技場>



横浜市神奈川区の三ツ沢公園にある三ツ沢公園球技場は、昭和30(1955)年に第10回国民体育大会のラグビー会場として建設された。その後、サッカー専用グランドに改修され、第18回オリンピック東京大会では、サッカー競技会場(5会場の一つ)として使用され、グループ予選5試合と準々決勝が行われた。

平成5(1993)年のJリーグの発足に伴い、横浜市内を本拠地とする横浜マリノス(現横浜F・マリノス)・横浜フリューゲルス(平成11(1999)年マリノスと合併し消滅)両チームのホームスタジアムとなるため、当時のJリーグ規格を満たす約15,000人を収容できるスタジアムに増築された。平成20(2008)年には、横浜市に本社を置くニッパツ(日本発条株式会社)がネーミングライツ契約を横浜市と締結したため「ニッパツ三ツ沢球技場」と改称され、現在でもJリーグや全国高校サッカー選手権大会の会場として使用されている。


 ○三ツ沢公園球技場で行われた試合と結果(サッカー)


  • 10/11 1回戦Aグループ 東西統一ドイツ(4−0)イラン

  • 10/12 1回戦Dグループ アルゼンチン(1−1)ガーナ

  • 10/13 1回戦Bグループ ユーゴスラビア(3−1)モロッコ

  • 10/14 1回戦Cグループ ブラジル(4−0)韓国

  • 10/15 1回戦Aグループ 東西統一ドイツ(2−0)メキシコ

  • 10/18 準々決勝 ハンガリー(2−0)ルーマニア


<三ツ沢公園陸上競技場>



三ツ沢公園陸上競技場は昭和26(1951)年に開場した神奈川県内初の日本陸上競技連盟第1種競技場(平成10(1998)年の横浜国際総合競技場(日産スタジアム)竣工に伴い第2種競技場に指定変更)である。三ツ沢公園陸上競技場では、第18回オリンピック東京大会開催年の昭和39(1964)年6月21日、オリンピックの開会式、閉会式を模した「オリンピック・フェスティバル」が開催され、約4万人の観衆を集めた。



<横浜文化体育館>



横浜市中区にあった横浜文化体育館は、横浜港開港100周年の記念事業の一環として建設された。建設費は4億6037万4000円。4年間の建設期間を経て、昭和37(1962)年5月11日に落成式を迎えた。

敷地面積は1万1014.23平方メートル。競技場面積は1920平方メートルで、ステージは255平方メートル。観客席は5,254席。当時としては最新鋭の設備も注目された。各種スポーツに利用できるように設計された電光式得点表示機や、運営のための主催者専用放送室などが完備され、スポーツ大会のテレビ中継などで活躍した。

第18回オリンピック東京大会ではバレーボール競技22試合(女子7試合・男子15試合)が実施された。

この大会では、女子日本代表は金メダル、男子日本代表は銅メダルを獲得する日本の歴史に残る結果を収めた。

第18回オリンピック東京大会の開会前の10月7日には横浜文化体育館の前を聖火リレーのランナーが通り、多くの人がその様子を応援しに集まった。

また、大会直前までバスケットボールの予選大会が行われており、バレーボール競技に参加する各国の代表チームが練習を開始するまでの約30時間で、コートの塗り替えを完了させたというエピソードが残されている。

第18回オリンピック東京大会後も各種スポーツや文化事業などに利用されてきたが、竣工から50年以上経過し老朽化が進み、さらに大規模なスポーツ大会や武道大会等への新たな施設対応が求められていたことから、旧横浜総合高校の敷地にサブアリーナとして横浜武道館を新たに建設し、完成後に「横浜文化体育館」を解体、大規模イベント施設となる「横浜ユナイテッドアリーナ(メインアリーナ)」を令和6(2024)年4月にオープンすることとなった。令和2(2020)年9月13日には「文体お別れ施設見学会」が開催され、多くの人が訪れ、別れを惜しんだ。


 ○横浜文化体育館で行われた試合と結果(バレーボール)

 

  • 10/12 第1試合 女子リーグ戦 ソ連 3-0 韓国

  • 10/12 第2試合 女子リーグ戦 ポーランド 3-0 米国

  • 10/12 第3試合 女子リーグ戦 日本 3-0 ルーマニア

  • 10/13 第1試合 女子リーグ戦 ポーランド 3-0 韓国

  • 10/13 第2試合 男子リーグ戦 ソ連 3-0 ルーマニア

  • 10/13 第3試合 男子リーグ戦 日本 3-0 韓国

  • 10/14 第1試合 男子リーグ戦 チェコソロバキア 3-2 ブルガリア

  • 10/14 第2試合 女子リーグ戦 日本 3-0  韓国

  • 10/15 第1試合 男子リーグ戦 オランダ 3-2 ブラジル

  • 10/15 第2試合 男子リーグ戦 ハンガリー 3-0 米国

  • 10/17 第1試合 女子リーグ戦 ソ連 3-0 米国

  • 10/17 第2試合 男子リーグ戦 ブラジル 3-1 韓国

  • 10/18 第1試合 男子リーグ戦 ブルガリア  3-2 オランダ

  • 10/18 第2試合 男子リーグ戦 日本 3-1 米国

  • 10/19 第1試合 男子リーグ戦 チェコソロバキア 3-0 ブラジル

  • 10/19 第2試合 男子リーグ戦 ルーマリア 3-1 ハンガリー

  • 10/21 第1試合 男子リーグ戦 ハンガリー 3-1 オランダ

  • 10/21 第2試合 男子リーグ戦 ソ連 3-0 米国

  • 10/22 第1試合 男子リーグ戦 ソ連 3-0 ブルガリア

  • 10/22 第2試合 女子リーグ戦 ポーランド 3-0 ルーマニア

  • 10/23 第1試合 男子リーグ戦 日本 3-1 オランダ(日本代表銅メダル獲得)

  • 10/23 第2試合 男子リーグ戦 ルーマニア 3-1 米国


<湘南港>



藤沢市江の島にある湘南港は、第18回オリンピック東京大会のセーリング競技会場として、昭和39(1964)年10月13日から15日と10月19日から21日にかけて競技が行われた。当初ヨット会場は横浜の富岡海岸が有力視されたが、米軍の接収地で返還が実現せず、代替地として湘南港建設が進められていた江の島に決まった。江の島は、昭和9(1934)年、文化財保護法に基づき国の「名勝・史跡」として指定されていたため、そのままでは工事ができず、昭和35(1960)年、これを解除、県の「名勝・史跡」に指定替えし、昭和36(1961)年5月から工事が開始された。第18回オリンピック東京大会を控え急速施工を要したほか、現場が太平洋の外海に面し常時波浪の影響を受けるうえ、加えて第2室戸台風等により工事は困難を極めた。また、製作ヤードを江の島に求めることが困難なため、海上8km離れた鐙摺港(葉山ヨットハーバー)でブロック製作し海上運搬据付を行うなど、厳しい条件のなか工事が行われた。工事としては、当時未だ県内でも実績が少なかったプレパックドコンクリート工法を水中コンクリートの施工法として最も安定し、かつ経済的な工法として採用し、施工パーティ数を増やすなど、関係者の努力により、昭和39(1964)年7月に完成した。

現在は、年間約100回のヨットレースが開催されているほか、青少年のヨット教室、障がい者や高齢者でも操作が容易な小型ヨットの体験教室も開催されるなど、誰もが気軽に訪れることのできる港として、多くの方々に利用されている。

湘南港はこうしたニーズに対応していくため第18回オリンピック東京大会後、ハーバー機能の充実や、一般に開かれた港湾として、再整備を行ってきたが、南防波護岸や岸壁の一部は現在も当時の姿を残している。

平成28年度には「第18回オリンピック東京大会において築造され、市民に開かれた海洋文化の発展に大きく寄与し、五輪とともに歩む貴重な土木遺産である」として、日本土木学会選奨土木遺産に認定(平成28(2016)年9月20日)された。


<相模湖漕艇場>



相模湖は昭和22(1947)年の相模ダムの完成に伴ってできた人造湖で、現在も神奈川県各地に上水道・工業用水・電力等を供給している。相模湖漕艇場は、昭和28(1953)年の開設以来、神奈川県におけるボート競技の拠点としての役割を果たしてきた。昭和30(1955)年の第10回のボート競技会場となり、昭和39(1964)年の東京オリンピックではカヌー競技会場となった。

カヌー競技は10月20日から3日間行われ、22カ国、215選手が参加し、熱戦を繰り広げた。競技は男女に分かれ、男子は1,000mカヤック(パドルの両方に水かきあり)の1・2・4人乗りとカナディアン・カヌー(パドルの片方にだけ水かきあり)の1・2人乗り、女子は500mでカヤックの1・2人乗りの男女合わせ7種目であった。

相模湖畔に、「本部庁舎(審判塔)」とカヌーなどを保管する「艇庫」があった。本部庁舎は鉄骨4階建て、審判塔には判定写真用の現像室も完備。艇庫には選手の控え室やシャワー室などもあり、当時としては国際級の施設だった。

また、湖周辺には参加選手や役員の宿舎として、選手村も設けられた。当初、選手村は代々木(東京都)に設置される予定だったが、遠方のため競技に支障が生じるとし、昭和39(1964)年4月に「相模湖選手村」の設置が決定。男子宿舎は「相模湖ホテル(京王観光)」の一部を撤去しその敷地内に建設された。女子宿舎は、相模湖ユースホステルをそのまま活用。合計21カ国、214人が在村した。

現在は、本部庁舎と艇庫は取り壊され、男子宿舎のあった場所には相模湖総合事務所が、女子宿舎があった場所は相模湖交流センター前の駐車場になっている。


<野毛山公園オリンピック碑>



この碑は、横浜市で第18回オリンピック東京大会のサッカー、バレ-ボ-ルそしてバスケットボ-ルの予選が行われたことを記念して、昭和41(1966)年10月10日(当時の「体育の日」=東京オリンピック開幕日を記念して制定)に横浜市西区・野毛山公園の展望台地区に建てられた。

碑は鉄筋コンクリート製の立方体の駆体の側面4面のうち3面に横浜で競技が行われたバレーボールとサッカー、予選が行われたバスケットボールを行う選手の躍動的な青銅製レリーフが飾られている。残りの一面には銘板がある。

銘板の碑文は当時の横浜市長であった飛鳥田一雄。施工及び監督は名川徽章製作所の名川昌一。名川徽章製作所は東京都文京区にある徽章・記念品等の製造販売を行っている会社。昭和2(1927)年創業で戦時中は海軍省の航法計算盤などを作っていた。名川昌一は平成16年度に金属加飾工として文京区の技能名匠者に認定されている。

設計及び彫刻は彫刻家で洋画家の堀野秀雄(1911-1999)。堀野秀雄は昭和4(1929)年に日本体育大学荏原高等学校を卒業しており、同校はスポーツ団体の関係者を多く輩出していることから、そのことがこのレリーフ制作に関係しているのではないかとも考えられるが、推察の域を出ない。


<野毛都橋商店街ビル>



横浜市中区にある野毛都橋商店街ビルは、第18回オリンピック東京大会を契機として、それまで野毛地区の路上で営業していた露天商を収容するために昭和39(1964)年に建設された共同店舗。

施主は財団法人横浜市建築助成公社。設計は、創和建築設計事務所(設計責任者:吉原慎一郎)である。大岡川に面して90mにも及ぶ局面のファサードは印象的で、野毛のシンボルの一つとなっている。当初は通りに面して入口が連なる1階に雑貨等の物販店舗、2階に飲食店が入っていたが、現在ではほぼ飲食店となっていおり、毎晩多くの常連客を集めている。


<箱根療養所>



小田原市風祭にある箱根療養所は、日露戦争により手足を失った傷病兵を収容するために明治40(1907)年、東京予備病院渋谷分院の一画に設立された国立の保護施設「廃兵院」が起源である。明治41(1908)年に渋谷から巣鴨に移転。昭和11(1936)年に名称を「傷兵院」と改めるとともに、小田原へ移転した際に建設された建物である。設計は内務省営繕管財局。

戦後は一般にも開放され、箱根療養所は国立療養所箱根病院、独立行政法人国立病院機構箱根病院と改称。療養生活の中で、身体機能向上や社会復帰などを目指して入所者が行ったことのひとつが運動であった。様々なスポーツに取り組んだことにより、東京パラリンピックの日本代表選手54人のうち19人の選手を、箱根療養所から送り出す結果につながった。

箱根療養所から出場した青野繁夫選手は、東京パラリンピックの選手団の代表を務め開会式で選手宣誓も行った。

東京パラリンピックでは、当時の競技種目であった卓球、水泳、フェンシング、重量挙げ、洋弓などで銀メダル4個、銅メダル3個の獲得や入賞を果たすなど、選手たちは大活躍しました。


<横浜市立星川小学校 第18回オリンピック東京大会使用記念ポール>



横浜市保土ヶ谷区にある横浜市立星川小学校通用門の側に旗ポールがある。台座のプレートには「XVIIIオリンピック(1964 TOKYO) 使用記念ポール」「1965-5 贈 星川小学校殿」「横浜市議会議員 星川小学校PTA会長 大久保英太郎」「学園に国旗掲揚ポールを贈ろう」「企画施工(株)全宣」とある。

第18回オリンピック東京大会では、メイン会場の国立競技場のほか選手村、駒沢などにもアルミニウム製のポールが立てられ、参加した94か国・地域の旗が掲げられた。

大会後、国立競技場以外のポールは一部を残して希望する団体に寄贈することにしたところ、引き取り希望が殺到。多数のポールが全国各地に配られた。その1本がこのポールであると考えられる。

寄贈者として名前が刻まれている大久保英太郎は、郵政労働組合出身で昭和30(1955)年に日本社会党から横浜市議選挙(保土ケ谷選挙区)に立候補し初当選。以後、9期に渡り横浜市議を務めた。昭和50(1975)年からは所属の日本社会党が最大会派ではなかったにも関わらず、市会議長を務め、4期目の飛鳥田市政を支えた。平成2(1990)年4月8日実施の第12回横浜市長選挙に日本社会党から新人候補と立候補したが、同じく新人の高秀秀信に敗れ、その後は市会議員になることなく、平成20(2008)年に没している。



神奈川県内には、今回紹介したもののほか、大磯選手村となった大磯プリンスホテル(選手が宿泊した1号館は解体)、交通インフラ分野でも第18回オリンピック東京大会に合わせて開業した新幹線新横浜駅や海の玄関口である横浜港大桟橋客船ターミナル、湘南有料道路(現国道134号線)など枚挙に遑がない。この機会に合わせてご覧いただきたい。


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